「英語を話している自分の方が好き」
英語をある程度話せる人の中で最近耳にする言葉。
日本語を話していても、英語を話していてもどちらも自分であることには変わらないけれど、何かが違う。
言葉が違えば、音やトーンも変わる。
私は昔カナダ人の友達の前で電話で日本語を話していたときに
“Come back Keiko!”と冗談で言われたことがある。
英語を話す私には動きがあり、イントネーションもアップダウンがあるのに対し、日本語はあまり高低差がなく、落ち着いて話しているからまるで別人だと言われたのだ。
でも、コーチングを学んでから私は
「英語キャラと日本語キャラの一致」を感じるようになった。
キャラというと作っているような響きだけど、そうではなく、そしてどちらも私ではある事実は変わらないのだけれど、より自分らしさを追究して生きていくうちにそこのギャップがなくなっていた。
英語を話しているほうが好きと答える人たちに聞いてみると、
英語を話している時の方が開放感がある、
明るい、
表情が大げさで動きがある、
失敗しても気にしない、
笑っていられる、
もっと自由だ ・・・・と
確かに日本語は尊敬語、丁寧語、謙譲語・・・など色々人を気遣う表現が多く、距離感や窮屈さを感じることがあるかもしれない。
旅行あるいは実際に生活した経験を経て「海外いいな」と思ったことは誰でも一度はあるでしょう。きっとそれだけ非日常で開放感があったり、普段の忙しさとは違う時間の流れ方で違った豊かさを味わえたりするからでしょう。
でも、
その開放感、海外に行かないと、あるいは英語で話さないと手に入らないの?
と考えてみた。
もし日常的にその開放感を感じられたらどうだろうか。
そこで私が出した1つの答え。
英語を使う環境、日本語を使う環境それぞれ考えてみると、1つ言えるのは前提の違いがあるということ。
英語を使うときには相手が違って当たり前という前提がある。
もちろん日本人だって人は皆違うよ。
けれど、英語を話すときは外国人と話す時が多いでしょう。
相手に「価値観やバックグランドが一緒である」ことなんて期待してないよね。
だから、違って当たり前。
違って当たり前だから相手に好奇心がわく。
何か共通点があったときの喜びが大きい。
また、伝わらなかったときも言語のせいかもしれないし、文化的背景の違いから来ているかもしれないと手放せることが多い。
それに対して日本語を話す相手はどうだろう。
違って当たり前感は英語を話すときよりも薄い。
共通点があっても喜び度合、珍しい感じは低いかもしれない。
相手と何かに対して意見が違ったときは興味が沸くか、変な人と思って距離を置くか。
そして、伝わらなかったときは「この人になんで伝わらないんだ」と怒りが湧いて来たり、自分とは違うんだと思って手放すというよりも引くように距離を取る。
ちょっと大げさに書いてみたけれど、そんなことってないかな。
では、本当の意味で「人は誰もが違って、それでいいんだ」と思えたらどうだろう。
日本語、英語関係ないよね。
違っていいと心から思えると自分自身も他人の目を気にしなくなる。
自由に表現するようになる。
自由に表現しあっていると、目の前の相手に「好奇心」が沸く。
この人何者?気になる!みたいな。
本当の意味での開放感、自分らしく生きられる喜びって日常から味わえたらどんなに幸せだろう。
気に入っている場所があったら、そこには必ずあなたが大事にしたいエッセンスがある。
そのエッセンスに目を向けてみると、その環境じゃないと手に入らないことばかりじゃないよ!